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竹波エーイチ

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出雲の鏡、卑弥呼の鏡 - 日本武尊編その35

神原神社古墳1

「魏志倭人伝」によると、西暦238年(景初二年)、邪馬台国の女王・卑弥呼は「魏」の皇帝に朝貢の使者を送り、ドレイ10人の見返りとして莫大な財宝を手に入れたという。

その財宝の中には「銅鏡百枚」が含まれていて、昭和の頃から「三角縁神獣鏡」がその第一候補として考えられてきた。

三角縁神獣鏡は、50年前だと全国で100枚も見つかっておらず、畿内中心に分布していたことから、邪馬台国「畿内説」の最大の根拠とされてきたそうだ。つまり、畿内にあった邪馬台国を引き継いだ「大和政権」が、"卑弥呼の鏡"を配布したのだという話。

神原神社古墳2

今では「百枚」どころか約600面も出土してしまった三角縁神獣鏡だが、中でも最も重要な一枚は、なぜか畿内からは遠い遠い遠い、出雲の地で見つかっている。

1972年、雲南市の「神原神社古墳」から出土した三角縁神獣鏡には、魏の年号「景初三年」(239年)の銘が刻まれていて、おおお!まさにこれぞ魏の皇帝から卑弥呼がもらった「百枚」のひとつに違いないっ!!と、大騒ぎになったそうだ。

神原神社

ただ、不思議なことに、邪馬台国の使者が魏を訪れていた景初二年〜正始元年の銘を持つ三角縁神獣鏡は、これを含めて4枚しか見つかっておらず、見つかった場所も畿内を遠く離れた豊岡市、高崎市、周南市の小さい古墳ばかり。

さらにはそれらが古墳に副葬された年代も、西暦350〜450年とずっと後の時代で、「紀年銘鏡」だからといってヤマトが大切に利用したとは、今一考えにくい状況だったりしたのだった。

銘文
(出典「三角縁神獣鏡の銘文」邪馬台国の会)

不思議なことは他にもある。
「景初三年」につづいて刻まれている、銘の本文だ。

鉛同位体比チャート」の研究から、"三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡にあらず!"(全て国産だ)と主張されている藤本昇さんは、景初三年鏡の銘文をこう訳している。

景初三年、私、陳がこの鏡を作りました。私は都の鏡師でしたが、こちらに亡命して来ました。私が作ったこの鏡を持てば、役人であれば三公の地位に出世し、母であれば子や孫に恵まれ、寿命は金石のように長生きできます。

(『卑弥呼の鏡 鉛同位体比チャートが明かす真実』藤本昇/2016年)

何と!
魏の皇帝が卑弥呼に、汝の国民に見せびらかして自慢しろ、といって与えた財宝「三角縁神獣鏡」には、一介の民間人の鏡職人、陳さんの自己紹介が刻まれていたというわけか。これは不思議だ。

卑弥呼の鏡

ところで藤本さんの手法は、銅鏡に含まれる4種類の鉛同位体の混合比率を、四軸のレーダーチャート上で比較していくというもの。同じ時代に同じ材料から作られた銅製品は、だいたい同じようなチャートを描くという。

弥生時代鏡の鉛同位体比チャート
(図表5A 弥生時代鏡の鉛同位体比チャート)

まず、図表5Aは弥生時代の銅鏡の比較。
なんと「銅鐸」までが、同じ材料から作られたことが分かる。

この次の時代の「漢鏡」になると、「画文帯神獣鏡」や「内行花文鏡」などが、今度はチャート上にタテ長の菱形を描いて、ほぼ一致している(弥生鏡を90°回転させたかんじ)。

鶴山丸山鏡の鉛同位体比チャート
(図表24 鶴山丸山鏡の鉛同位体比チャート)

図表24は、岡山県の4C後半の円墳「鶴山丸山古墳」(直径45-54m)から出土した「仿製(ぼうせい)」、つまり国産と見なされる三角縁神獣鏡他のチャート。一つの古墳から出てきただけあって、種類は違っていても、材料は同じもののようだ。

景初三年鏡と正始元年鏡の鉛同位体比チャート
(図表23 景初三年鏡と正始元年鏡の鉛同位体比チャート)

んでこれが、邪馬台国の使者が魏から持ち帰ったという"卑弥呼の鏡"(+α)のチャート。

・・・んー、見事にバラバラですなあ。
それにこのチャートって、ヨコ長ひし形の弥生鏡とも、タテ長ひし形の漢鏡とも違って、むしろ鶴山丸山鏡の「仿製」(国産)のチャートに近くないかなー?

城の山鏡の鉛同位体比チャート
(図表25 城の山鏡の鉛同位体比チャート)

んじゃ、「舶載(はくさい)」(中国製)のチャートも。

図表25は、鶴山丸山古墳と同時代の4C後半に、兵庫県朝来市に築造された円墳「城の山古墳」(直径30-36m)から出土した舶載(中国製)の三角縁神獣鏡他のチャート。

不思議なことに、舶載なのに、仿製の鶴山丸山鏡とそっくりだ。ってことは、これら舶載も仿製も、どちらも同じ材料から作られたってこと?

鏡の古代史

それで改めて「舶載」と「仿製」って、どうやって見分けるかを調べてみてビックリした。何と、エラい学者先生の「主観」による分類らしい。

 すでに述べているように、三角縁神獣鏡は全体で約600面弱の事例が知られている。文様が精緻な一群が「舶載」三角縁神獣鏡、文様が粗雑化し変容が進んだ一群が「仿製」三角縁神獣鏡として区分されており、かつては前者を中国製、後者を日本列島製とみるのが一般的であった。特に「舶載」三角縁神獣鏡については、銘文の用字や卑弥呼が魏に使いを送った「景初三年」(239年)や翌年の「正始元年」(240年)といった紀年銘を持つ鏡の存在から、魏の時代に製作されたことが早く大正年間に富岡謙蔵によって指摘され、中国製説の有力な根拠とされてきた。以来、梅原末治や小林行雄の研究をはじめ、邪馬台国畿内説と結びつく形で、卑弥呼の「銅鏡百枚」の最有力候補として位置づけられてきたのである。

(『鏡の古代史』辻田淳一郎/2019年)


うーむ、何かもっとハイテクな方法による区分かと思ってたが、見た目なのかー。
それだと藤本さんの、数値を元にしたチャート比較の方が、真実に近いようにぼくには思えてしまうなー。

ちなみに辻田さんは本の中で、「銅鏡百枚」の候補として「四葉座内行花文鏡や方格規矩四神鏡、各種の画文帯神獣鏡(特に環状乳神獣鏡・同向式神獣鏡)などの大型鏡」を挙げられている。
さすがに今どき、三角縁神獣鏡を"卑弥呼の鏡"だと考える学者はいないんだろう。

それより問題は、卑弥呼の時代まで九州を中心にしていた鏡文化が、卑弥呼の没後から4世紀初頭にかけて、その素地のなかった畿内にシフトしていったのは何故なのか、のようだ。

 もう一つの意見は、弥生時代後期以前には近畿地域がその後の政治的中心地となる素地が少なく、弥生時代終末期から古墳時代にかけて急速に中心性が高まり、いわば弥生時代とは不連続な形で古墳時代的な秩序が出現したという見方である。


辻田さんはプロの考古学者なので、「三世紀中葉に」「中国鏡の流入の窓口が近畿地方に転換し」「大量の中国鏡および三角縁神獣鏡が奈良盆地に流入し」「近畿地域がそれ以後長く政治的・文化的中心となる上での大きな契機になった」云々と慎重に書かれているが、藤本さんの「鉛同位体比チャート」が導く結論はもっとシンプルだ。

三角縁神獣鏡は、250年ごろまでに畿内で誕生した政権(?)が、中国から亡命してきた銅鏡職人の手で大量生産した銅鏡である。・・・ってところか。

銅鐸鋳型の出土遺跡の分布
(出典『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』田中義昭/2008年)

「図39」は、弥生時代の「銅鐸」鋳型の出土地。
近畿はもともと銅鐸の一大生産地で、滋賀県「野洲町」からは高さ144cm、重さ45kgという超巨大銅鐸も出土している。

また、近畿は九州に比べると「鉄鏃(鉄のやじり)」の出土が極端に少ないが、その反面「銅鏃(銅のやじり)」については近畿と東海を合わせると、九州の数を遙かに凌駕してるんだそうだ(『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)。

というわけで、仮に250年頃までに畿内に(邪馬台国ではない)政権?が誕生していて、なぜか銅鏡を大量に作りたくなったとして、そいつを実現するための技術と素材は、すでに十分に確保されていたんじゃないかと、ぼくには思えるのだった。

これで出雲の考古学の話題はおわりで、次回から風土記その他へ。

つづく。

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出雲の古墳史の蘇我氏と物部氏 - 日本武尊編その34 

四隅突出型墳丘墓の模型

「出雲弥生の森博物館」に展示されていた、四隅突出型墳丘墓のジオラマ。
西谷三号墓」で進められている、初代"出雲王"の葬儀の準備風景が再現されていた。

西谷三号墓からは丹後・越の土器が21%、吉備の土器が14%も出土していて、近隣から大勢の弔問客が訪れた大規模な葬儀だったようだ。

出雲の弥生墳丘墓の変遷
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』渡辺貞幸/2018年)

四隅突出型墳丘墓は出雲市だけではなく、東部の安来市でも造営されていて、どちらも形状や石の並べ方がよく似ていることから、西暦200年ごろにはすでに、後の"出雲国"につながる地域のまとまりが生まれていたと考えられるんだそうだ。

ところが上の「図57」で分かるように、それからしばらく経った西暦250年ごろには、出雲地域から四隅突出型墳丘墓の築造がいっぺんに終焉してしまう。こりゃ一体どういうことか?

出雲国の現在(島根県の公式サイト)

実は、そのヒントと思われることが、正史・日本書紀には書いてある(西暦は長浜浩明さんの計算による)。

まず崇神天皇の60年(西暦237年頃)からしばらくして、出雲の族長・出雲振根(ふるね)がヤマトに不満を持っているとして、四道将軍の吉備津彦と武渟川別に誅殺されるという事件が起こっている。

つづいて垂仁天皇26年(255年頃)、重臣の物部十千根が派遣されて、出雲の「神宝」の検校を行っている。古代において「神宝」を奪われることは、部族の降伏を意味したそうだ。

考古学の裏付けもある。

一つは、「倭国大乱」の時代に全国につくられた「高地性集落」が、出雲では後期末(3C中頃)に多く作られていること。つまり250年頃が、出雲が対外的にもっとも緊張した時期だったということ(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭)。

もう一つが、西谷三号墓の頃には出雲に多数持ちこまれていた吉備の土器が、3C前半にはスッカリ消えてしまったということ。代わって増えたのは、畿内系の土器だったという(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信)。

てなかんじで、日本書紀と考古学のいずれもが、250年頃に軍事的な圧力を受けた出雲が、ヤマトに降伏したことを告げているとぼくには思えるんだが、どうなんだろ。

神原神社古墳

実際、次に出雲に"首長墓"と見なせるお墓がつくられたのは、それから100年も経ってからのことだった。

荒神谷、加茂岩倉よりさらに内陸に入った雲南市の「神原神社古墳」は、"卑弥呼の鏡"といわれる「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土したことで有名で、4C中頃の築造とされる。

ただそのサイズは、一辺30mにも満たない小さな"出雲型方墳"で、同世代の丹後「蛭子山古墳」(145m)や吉備「浦間茶臼山古墳」(138m)といった前方後円墳に比べると、かなり見劣りしてしまうものだった。

大寺一号墳

4C後半になると、出雲平野にもようやく前方後円墳があらわれた。

現在、出雲大社の前を通っている国道431号線を東に5キロ行くと、「大寺薬師」というお寺があって、そこの裏山が全長52mの「大寺一号墳」という前方後円墳だ。

ただし、こいつは地元の研究者には「ヤマトが打ち込んだクサビ」だと言われていて、出雲の首長層のお墓ではないそうだ(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)。

出雲の古墳の変遷
(出典『八雲立つ風土記の丘 常設展示図録』)

四隅突出型が消えた西暦250年以降の、出雲地域の「古墳」の歴史を表にまとめたのが上の図。

はじめは四隅突出型の勢いを残した東部(安来市)が優勢で、西部(出雲市)はヒジョーにお寒い状況。西谷墳墓群を造営した一族は、一体どこに消えてしまったのか。

これが次第に中央部(松江市)が強勢になっていくのは、その辺りが「出雲国造」一族の本拠地だったからだろう。「国造」というぐらいだから、ヤマトの支援をうけて発展したんだろ、きっと。

山代二子塚古墳

そして時は流れて6世紀後半、あの聖徳太子が生まれた頃の話になるが、出雲では突然、地域最大級の前方後「方」墳が松江市に、同じく最大の前方後「円」墳が出雲市に、ほとんど同時につくられた。

山代二子塚古墳」が松江市の「方」で、全長は92m。
出雲国造家の居館だったといわれる「神魂(かもす)神社」から2kmもない場所で、まぁ当時の国造さんのお墓なんだろう。

今市大念寺古墳

一方、こちら「今市大念寺古墳」が出雲市の「円」で、やはり全長は92m。
JR出雲市駅からはわずか500mという好立地で、お墓参りも楽チンだったことだろう(むろん冗談)。

この両者は、フツーに考えれば対立する地域豪族によるものと思ってしまうところだが、墓室なんかは良く似た作りで「イデオロギー的親縁性」があると、古墳の専門家は書いている(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄)。

つまり、対立してたのは出雲の人たちではなかった、ってことか。

出雲国風土記と古代遺跡

古墳時代の後期、上級国民が身につけるもので最も権威があり、即ランキングに繋がったのが「装飾付大刀」なるアクセサリー。これは中央貴族から地方豪族へのプレゼントにも使われて、グループの拡大と結束に役立てられたそうだ。

辺境の出雲にもそんな流行は押し寄せていて、西部の出雲市では「倭風大刀」が、東部の松江市では「舶載系大刀」が所有されていたという。つまり、出雲市の豪族と、松江市の豪族は、異なる中央貴族にくっついていたわけだ。

んで6C後半の中央といえば、「蘇我氏」と「物部氏」が激しくバトっていた時代だった。

出雲出土の装飾大刀を検討すると、西部出雲出土のものはねじり環頭、くさび形柄頭などの伝統的倭風大刀で中央豪族の物部氏との関わり、東部出雲出土のものは単龍・三葉・獅噛・双龍など各種図像の環頭でつくられた大陸風飾り大刀で蘇我氏との結びつきで配布を受けていたが、物部氏滅亡後は出雲全体が同じような装飾大刀になるという。

(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭/2002年)


おお!山川出版社の本はつねづね、教科書的で(笑)詰まらない記述ばかりと偏見を持っていたが、このリブレットは踏み込んでるな。

西部(出雲市)が物部グループに属し、東部(松江市)が蘇我グループに属していたってことになると、その頃の出雲地域に忽然と現れた、出雲では史上最大級で、何故かほぼ同じサイズの「円」と「方」って、物部vs蘇我の場外乱闘ってことにならないか?

もう一度、別の出雲の古墳史の表を出すけど、山代二子塚と今市大念寺の登場はあまりに唐突な印象で、そもそも出雲の人たちに100m近い古墳をつくるカネや技術ってあったんだろうか。中央に当時最強のスポンサーがいたと考えれば、それも余裕だろうが。

島根県内の主な古墳の変遷

さてそうなると当然気になるのが、物部の没落で出雲西部の権益を失った、今市大念寺の被葬者一族は誰なのか、だが、手持ちの本だと出雲国造と同族の「神門(かんど)氏」の名前を見かけたものの、根拠とか裏付けが書いてなくて詳細は不明。

また、出雲国造家に出雲を追い出されたとなると、「神門氏」がオオクニヌシかって話もありそうなもんだが、そういう話も聞かず。

出雲そば(出雲そば)

ただ、蘇我氏に付いて勝者となった(?)出雲国造家も安泰ではなかったようで、大化の改新のあと制定された「国司」が中央から赴任してきて松江に「国府」をつくると、居場所を失ったか第25代出雲果安(708〜721)のとき、国造家は本拠地をいま出雲大社がある「杵築」に移したと、『古事記外伝』(藤巻一保)などには書いてある。


それにしても、最近読んだ三浦佑之さんの本には、古事記にはヤマトの出雲への「怖れ」が残されている・・・、なんて書いてあったけど、古墳の歴史をみる限り、出雲はヤマトに降伏し、利用され、果てには中央の政争に巻き込まれただけの、気の毒な地域としか思えないな。

ただ、杵築移転後も出雲国造がヤマトからエコ贔屓されてたことも事実なので、そこら辺、もうちょっと勉強せねば。

つづく

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加茂岩倉遺跡と青銅器祭祀の終焉 - 日本武尊編その33

荒神谷遺跡1

1984〜85年の発掘で、弥生時代の銅剣358本など大量の青銅器が出土した、出雲市の「荒神谷遺跡」。

出雲空港から東南に、平野を5キロほど進んだ先の山麓にあって、何でこんなヘンピな場所に埋めたのか!?と不思議になったが、「古代出雲歴史博物館」の『展示ガイド』によると、弥生時代は遺跡のすぐ近くまで宍道湖(しんじこ)が迫っていたそうで、それほどアクセスの悪い場所でもなかったらしい。

荒神谷遺跡2

荒神谷遺跡が発見されるまでは、弥生時代の銅剣は日本全体でも300本ほどしか見つかっておらず、それまで"神話の国"だった出雲のイメージは完全に覆されたという。1984年以前に出雲に言及した歴史書などは、出雲が"神話の国"だと思って書かれてるわけで、あまり当てにしない方がいいのかも知れない。

なお現地の案内板によると、銅剣が埋納されたのは「弥生時代中期後半から後期はじめ」ということなので、たいたい西暦100年頃の話だ。

加茂岩倉遺跡1

そして荒神谷の10年後の1996年、今度は大量の「銅鐸(どうたく)」が一カ所から発見された。
その雲南市の「加茂岩倉遺跡」は、荒神谷遺跡からは3キロほど山奥に進んだ、正真正銘のヘンピな場所にあった。上の写真、中央やや右よりの崖の途中が、発掘現場だ。

加茂岩倉遺跡2

加茂岩倉遺跡の衝撃は、単にたくさんの銅鐸が一カ所から現れたことには留まらなかった。
発掘された39個の銅鐸のうち、8組15個が「同笵銅鐸」、つまり出雲以外に同じ鋳型で作られた銅鐸が存在する"兄弟銅鐸"だったのだ。これでいっぺんに可視化された、弥生人社会のネットワークが、下の「図40」。

(※出雲が世界の中心という意味ではないので、ご注意を。西暦100年ごろの日本各地が、相互にネットワークで結ばれていたことの一例として、出雲の視点からの図)

出雲の銅鐸と兄弟鐸の関係図
(「図40 出雲の銅鐸と兄弟鐸の関係図」)

「図40」の出典は、加茂岩倉遺跡の発掘を担当された田中義昭さんの『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』(2008年)という本。

よく知られるように、荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸からは、本体に「×」の印が刻印されたものが多数見つかっていて、この件について田中本には、両遺跡の「青銅器の一部が埋納されるまでのある時期、同じ集団の管理下にあったとも考えうる」という考察が紹介されている。

つまり、出雲の諸部族が保有していた大切な祭器を一つにまとめた人がいて、彼らが一つの意思を共有するかたちで青銅器の埋納が行われた・・・ってことなんだろうけど、その理由はいったい何だったんだろ。

古代出雲の原像をさぐる

それを一言で片付けてしまうなら、単純に「いらなくなったから」ということのようだ。
カッコ良く言うと「青銅器祭祀の終焉」。

考古学者の石川日出志さんによると、刻印された「×」印の意味は「青銅器がもつ呪術的な役割を封じ込める」とか「逆に呪術的な役割を解く」とかいったものが想定されるとのことだが、実際、荒神谷や加茂岩倉に埋納された形式より新しい青銅器は、山陰ではほとんど見られないのだという。出雲の青銅器のアップデートは、西暦100年ごろにはほぼストップしていたようだ。

青木4号墳

それじゃ、何が青銅器にとって代わったのか。

上の、何だかよく分からない写真は、『展示ガイド』に載っていた「青木4号墓」なるお墓の一部分。出雲では最も古く作られた「弥生墳丘墓」で、いわゆる「四隅突出型」のハシリだそうだ。

築造年代は弥生時代中期末とのことで、まさに荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋納された頃のことだ。

そして、ちょうどその頃から山陰を中心とするこの地方に墳丘墓が現れ、その後銅鐸祭祀が全面的に終焉する後期末にいたる間、この墳丘墓が徐々に各地にひろがっていく。
 それは、各地の地域集団が共同で豊穣を祈る宗教儀礼が中国地方から姿を消し、一部の有力者が各種儀礼の前面に現れ、その権限の継承に関心が移る時代へと変貌していくことを意味する。

(『農耕社会の成立』石川日出志/2010年)


西谷墳墓群

どうやら出雲では西暦100年ごろを境に、祭祀の主役は青銅器から墳丘墓に移行していったようだ。

上の写真は出雲市の「西谷墳墓群」のもので、3号墓上から見た2号墓。
「四隅突出型墳丘墓」の完成品だ。

僕らの足下の3号墓は、西暦180年ごろに築造された52x42mの「四隅突出型」で、ここまで来るとサイズといい、副葬品といい、偉大なる"出雲王"の「王墓」だと言って差し支えない威容だと感じる。

楯築墳丘墓

青銅器祭祀から王墓祭祀(?)への移行は山陽でも同様で、西暦200年ごろ、吉備にも全長72mの「楯築墳丘墓」が造られている。吉備オリジナルの「特殊器台」なんて土器が出雲でも出土したりして、山陽と山陰は墳墓のかたちは違っても、同じような祭祀の思想を共有していたようだ。

邪馬台国の候補地纒向遺跡

さて、そうなると気になるのが畿内、大和の祭祀事情だが、専門家の石野博信さんによれば、大和でも2世紀末になってついに、銅鐸による祭祀が終焉したそうだ。2世紀末から3世紀初頭の遺跡から、破壊された銅鐸の欠片が見つかっているんだそうだ。当時の大和は、出雲や吉備より100年遅れていたんだね。

ただ石野さんは、青銅器に見切りをつけた大和では、新しい祭祀として卑弥呼の「鬼道」を採用したって言われるんだけど、それだと出雲や吉備の事情とは今いちマッチしてない気がするな。祭祀の対象は、自分たちの「王」であって、卑弥呼じゃないはずなので。

一方、同じ石野さんの本には、大和でも最古と言われる前方後円タイプの弥生墳丘墓「纒向石塚古墳」(全長96m!)は210年頃の築造だと書いてあるわけで、遅ればせながら大和でも3世紀初頭、青銅器から「王墓」へと祭祀の主役が移行した、じゃダメなんだろうか。

あーそうか、邪馬台国が大和にあったとすると、卑弥呼が存命中の210年ごろに、「纒向(まきむく)」にそんな馬鹿でかい「王墓」が造られては理屈に合わなくなるわけか。邪馬台国大和説だと、こいつを出雲や吉備の「王墓」と同列に考えることは、絶対にあってはならない話になるわけか。

のどぐろ(島根名物・のどぐろ)

なお、作家の長浜浩明さんの計算だと、第9代開化天皇の没年は207年頃になるので、纒向石塚古墳の被葬者としてタイミングだけは合ってることになるな。うーむ面白い。

つづく

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鳥取の弥生遺跡と倭国大乱 - 日本武尊編その32

妻木晩田遺跡1

出雲へ!!と言いながら、まずはお隣の鳥取県から。

写真は、山陰地方の「弥生ムラ」としては最大級の規模を誇る、大山町の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」。
米子駅からは東に10キロほどの立地だ。

これまでに約240棟の住居跡と、約510棟の建物跡、数カ所の墳墓群が見つかっていて、遺跡の広がりは有名な「吉野ヶ里遺跡」の約3倍にも及ぶという。

妻木晩田遺跡2

妻木晩田ムラが営まれたのは、紀元1世紀から4世紀初頭の約300年間。

そのうち、ムラが最も繁栄していたのは、弥生時代後期後葉、2世紀後半の頃だろうと、『日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡』(濵田竜彦/2016年)という本に書いてあった。

妻木晩田遺跡3

・・・んーでも、なんか違和感があるな。

2C後半といえば「後漢書」なんかに「倭国大乱」なんて記述があって、「倭人」たちが殺し合いをしていた時代の話だ。その内乱を収束させるために卑弥呼が女王に共立され、邪馬台国が「倭国」の中心に躍り出た時代・・・。

そんな殺伐としたヒャッハーな時代に、妻木晩田ではムラが最盛期を迎えていた・・・と。
山陰最大の規模のムラなのに、ここに限っては戦闘とは無縁に平和を謳歌していたとか、そんなの有りえる話なんだろうか。

仙谷1号墓

上の図は、鳥取県の公式サイトから借用してきた妻木晩田でも最大の弥生墳丘墓「仙谷一号墓」。

見てのとおりで、2C後半の出雲で造営された王墓「四隅突出型墳丘墓」で、西暦180年ごろ、出雲との友好関係を背景にして強力なリーダーシップを発揮した王のために築造されたお墓だろうと、上掲の濵田本には書いてある。

日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡

「倭国大乱」の時代、出雲と妻木晩田は仲良く共存共栄の道を歩んでいたということか。

妻木晩田には、ムラ全体を囲むような「環濠(かんごう)」もなく、戦闘や防衛の痕跡はほとんど見あたらないそうだ。どうやら鳥取県の西部については、「倭国大乱」とは無縁の世界が広がっていたようだ。

青谷上寺地遺跡1

一方、妻木晩田から東へ40キロ、鳥取県のほぼ中央部には、戦闘の痕跡で有名な遺跡がある。
鳥取市の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」だ。

ここからは100人分以上の弥生人骨が見つかっていて、うち10人分以上の骨には「殺傷痕」が残されていた。それらに治癒現象は認められず、殺されてすぐにムラの一画に打ち捨てられたことが明らかだという。コンビニで買ってきた古代史のムック本にも、青谷上寺地は「倭国大乱の激戦を裏付けた」発見なのであった!と大見出しだ。

青谷上寺地遺跡2

昨今の科学の発展は目覚ましいもので、何とそれらの人骨から採取されたDNAがすでに解析され、骨のルーツがとっくに明らかになっていたりする。

解析結果によると、「父系」をあらわす核DNAのY染色体は縄文系が、「母系」をあらわすミトコンドリアDNAは大陸系が多数を占めたのだという。しかも母系のハプログループには家族や親類といった血縁関係が認められず、雑多な出自の集団だというから不思議だ。

弥生興亡女王卑弥呼の登場

そんな気の毒な骨たちで有名な青谷上寺地だが、鉄器や中国貨幣、漢鏡などハイテク品の普及も早く、高度で最新の技術をもった人々が住むムラだったと考えられてるそうだ。そこが「集団虐殺」を受けたわけだが、骨の専門家によれば、殺された人たちの顔立ちは「渡来系」なんだという。

・・・うーむ、父系は縄文、母系は大陸、んで本人たちは渡来系か。
メッチャややこしい人たちだが、彼らが何者なのか、ぼくに思い当たるのはこの地図か。

諸民族の地理的位置
(出典は『古代朝鮮』井上秀雄/1972年)。

最近では、長浜浩明さんや室谷克美さんが拡散してスッカリ有名になった話だが、「魏志倭人伝」と一緒に『三国志』に収録されてる「魏志韓伝」を読むと、卑弥呼の時代の朝鮮半島南端には、中国人が「倭人」と呼ぶ人たちが住んでいたことが分かる。

この「倭人」たちのルーツは縄文人なので、父系が縄文系で問題ない。
また、一般的に荒海を渡って新天地を求めるのは男どもなので、渡航先で家庭を持てば母系は大陸系だろう。

ってかんじで、青谷上寺地で皆殺しにされたのは、この半島出身の渡来系「倭人」たちという可能性はないんだろうか。

朝鮮半島で見つかった弥生土器の分布
(出典『弥生時代の歴史藤尾慎一郎/2015年)

「魏志韓伝」によれば、ちょうど「倭国大乱」の時代、朝鮮半島では楽浪郡やその支配下の県の統制が弱まり、それらの郡県の人々が南下して、「三韓」の諸国に流入する事態が起こったという。

そうした南下する人の流れに押し出される形で、最南端の「倭」から日本列島に移住していった「倭人」が骨の主なのでは・・・などと考えてみたんだが、まぁそんな短期間に青谷上寺地に100人規模のムラを作るなんて、ちょっと難しいか(笑)。

ただ、「遺跡展示館」の説明には、見つかった人骨は「弥生時代後期(約1800年前)のもの」と書いてあって、それだと虐殺は「倭国大乱」を卑弥呼の共立で収束させた"後"の事件になるわけで、彼らが渡来系であることを含めて、事件を「倭国大乱」に結びつけて考えるのは、ちょっと安直じゃないかという気がしないでもない。


三重環濠

夕暮れのビール欲に負けて訪問しなかった松江市の「田和山遺跡」。

写真は、松江市公式サイトのPDFから借用したものだが、弥生前期末〜中期後半(BC400〜AD100)に運用されたという三重の環濠が見て取れる。

環濠からは拳サイズの「石礫(つぶて)」が大量に発見されたことから、山城として籠城戦に使われた防御施設だという説があるが、不思議なことに守るべきムラ(居住域)は、環濠の"外側"にあるのだった。

新・古代出雲史

んじゃ、実際に守られていた山頂には何があったかといえば、九本柱からなる建物跡が見つかっていて、これはどうも出雲大社で有名な「大社造り」の、祖形なんじゃないかという話がある。つまりは「神殿」だ。

新・古代出雲史』(関和彦/2001年)という本には、田和山遺跡の石礫には多くの未使用品が含まれていたことから、それらは「神の城」に奉納された武器ではないかという考察がある。「出雲国風土記」の「大原郡」の条に記載されている、「大穴持命(オオクニヌシ)」が八十神と戦うために城を築いたというエピソードからインスパイアされた説だが、これは面白い。

逆茂木と乱杭

そういえば、以前見物した愛知県最大の弥生ムラ「朝日遺跡」でも、「逆茂木(さかもぎ)」「乱杭」といった凶悪な防御装置の展示があって、すわ!愛知でも「倭国大乱」か!と色めき立ったものだが、ちゃんと説明を読んでみれば、それらが使われたのは「倭国大乱」の100年も前のことだというし、設置された場所も居住域のど真ん中で、つまり外敵からムラを守るものではないということだ。

地元の考古学者、赤塚次郎氏によれば、「逆茂木(さかもぎ)」や「乱杭」は、そのころ頻繁に発生していた洪水や水害への対策だろう、という話だ。

牛骨ラーメン(鳥取名物・牛骨ラーメン)

まぁぶっちゃけ、山陰やら東海やらに「倭国大乱」を見るのは、邪馬台国が畿内(大和)にあったと思うからで、ぼくら九州説からすれば「倭国」のエリアは福岡県・佐賀県・長崎県と熊本北部なので、「倭国大乱」の痕跡がその外側で見えてしまうことは考えにくい。

なーんというか、邪馬台国大和説からは、卑弥呼の時代の日本列島に、すでに「国家」があったというような空気を感じてしまうんだよなー。まだ朝鮮半島では言語さえ統一されてない時代なのに、それは少々思い上がりなんじゃないかな。

新女王、卑弥呼の号令一下で、九州から東海までが足並みを揃えて戦闘を止めるって、ちょっと「倭人」を過大評価しすぎなんじゃないか。たかが鬼道のシャーマンが、そこまでの広いエリアに影響を及ぼすって、全然イメージが湧かないんだよなー。

つづく

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沼津の古墳と三島のコトシロヌシ - 日本武尊編その31

高尾山古墳1

以前から気になっていた古墳を見物してきた。
静岡県沼津市の「高尾山古墳」は、東日本では最古級という前方後「方」墳だ。
墳丘長は62m。

市の教育委員会によれば、築造年代は西暦230年ごろが推定されるそうで、それは邪馬台国の卑弥呼が存命中という時代のことだ。ただ不思議なことに、邪馬台国に縁の深い「伊都国」や「奴国」には、その当時まだ前方後●型の墳墓は作られていない。

高尾山古墳2

高尾山古墳からは、東海系、北陸系や近江などの土器が出土していて、ヤマト発の前方後「円」墳に対抗する「方」の連合、みたいな説を聞くことがあるが、世の中そんなに単純に割り切れるものではないらしい。

高尾山古墳につづく3C後半、関東南部には神奈川県海老名市の「秋葉山3号墳」や千葉県市原市の「神門5号墳」が築造されるが、それらはいずれも「円」なのだった(一方、埼玉県ではしばらく「方」ばかりが作られたりする)。

三嶋大社2

ついでというわけじゃないが、おとなり三島市の伊豆国一の宮、官幣大社の「三嶋大社」にも立ち寄ってきた。こちらを参詣するのは2回目になる。

三嶋大社の現在の祭神は、「大山祇命」と「事代主神」。
このうちオオヤマツミについては、室町時代の『大日本一宮記』にも「三嶋大明神」の祭神として挙げられていて、問題はない(ちなみに木花開耶姫の親神)。

一方、コトシロヌシの方は、かなり最近になってから設定された祭神のようだ。
江戸後期の国学者、平田篤胤が言い出しっぺで支持を集め、明治6年にオオヤマツミから主祭神の座を奪ったものの、オオヤマツミ支持者の巻き返しもあって、戦後にいまの二柱に落ち着いたという話だ。

三嶋大社3

日本の神々 10 東海』によれば、現在の三嶋大社は事代主神が「えびす神」として地元の漁師の崇敬を集めているそうだが、現在の祭神から元来の信仰を考えるのは、つくづくリスキーな行為だと痛感させられる(もちろん、現在の信仰そのものを否定するものではない)。

美保神社221024

コトシロヌシといえば、記紀の「国譲り神話」でオオクニヌシの子として登場し、出雲の三穂(美保)でヤマトの使者に降伏し、いまは松江市の「美保神社」などで祀られている神だ。

ところがこのコトシロヌシ、記紀と同時代の733年に、当の出雲の伝承を集めて編纂された「出雲国風土記」には全く出てこない。「出雲国風土記」は、美保で祀られているオオクニヌシの子は「ミホススミ(御穂須須美命)」だといい、そもそも「美保の郷」という地名はミホススミの名から取られたものだといっている。

(略)したがって、美保郷の地名を負う美保社の祭神が、この御穂須須美命と無縁であるはずがない。
 けだし、風土記のころにはもっぱらこの郷の祖神たる御穂須須美命をのみ祭神としていたのであろう。
 
 (「美保神社」『日本の神々 神社と聖地 7山陰』1985年)

※なお、ミホススミについてはこのサイトが詳しい。
- ミホススミに光を!プロジェクト -

長田神社(神戸の長田神社 写真AC

それじゃ、コトシロヌシは一体どこの神さまなのか。

よく知られるように、数ある風土記の中でも「出雲国風土記」だけは、中央から派遣された国司ではなく、土着の出雲国造その人が編纂したものだ。そしてその出雲国造が、風土記とだいたい同じ時代に奏上した寿詞(祝詞)に『出雲国造神賀詞(かんよごと)』がある。

その「神賀詞」によれば、コトシロヌシは皇室の守護神の一人として、「大倭国」の「宇奈提(うなて)」に鎮座する神だという。宇奈提は、奈良県橿原市の「河俣神社」周辺を差すらしい。

んでこの時、父の大穴持(オオクニヌシ)は「倭の大物主なる櫛厳玉命」という名前で「大御和(大三輪)」に鎮座、子の「阿遅須伎高孫根命(アジスキタカヒコネ)」は「葛木の鴨」に鎮座、同じく子の「賀夜奈流美命(カヤナルミ)」は「飛鳥」に鎮座して、この四神が描く菱形状の結界の中心に、当時の首都の「藤原京」がある・・・という説は、昔からよく知られた話だそうだ。

出雲の神々の貢置図
(図18 出雲の神々貢置図『邪馬台国と地域王国』門脇禎二/2008年)

ところで、この「出雲国造神賀詞」の世界観は、オオクニヌシ=オオモノヌシという点で、日本書紀の世界観とかなり近いものがある。一方、オオクニヌシとオオモノヌシを全く別々の神だとする古事記とは、全く合致するものがない。

ぼくなどはそれだけで、古事記は日本書紀より新しいんだろうなーと思ってしまうわけだが、いやいや古事記こそが日本神話の「古層」を語り継いでおるのじゃよ、とおっしゃる学者さんもいる。

古事記のカリスマ、三浦佑之さんだ。

古事記のひみつ

三浦さんの基本的な立ち位置は、古事記の「序文偽書説」にある。
序文は平安初期に偽造されたもので、古事記の成立が712年かどうかは定かでない、という立場だ。

だがそれでも、古事記の神話には「古層」が語られているとして、三浦さんが挙げるのが「比喩の古層性」「天津麻羅の象徴性」「(女系)系譜の古層性」などだが、正直それらの議論は専門的すぎて、ぼくらシロウトには敷居が高かった(『古事記のひみつ』2007年)。

古事記を読みなおす

それでもう少し入門者向けの本をと読んだのが『古事記を読みなおす』(2010年)で、ここにはモロに出雲神話への言及があった。

三浦さんによると、古事記には日本書紀には出てこない山陰から北陸にかけてを舞台にした神話群があり、そこでは「日本海文化圏」という「古層」の神話が語られているのだ、だから古事記は古いのだ、ということだ。一方で日本書紀は、「出雲神話」としてまとまっている体系の、大半を「不要」だとしてカットしてしまったのだと三浦さんは言う。

 古事記と日本書紀の、こうした歴史認識の違いをもとに考えると、律令制古代国家の正史であろうとする日本書紀にとって、古事記的な「出雲」は、過去の、棄てられた世界であったということになるはずです。(中略)出雲は、けっして大和朝廷と並べられる、あるいは比肩しうる世界ではなく、ましてや、過去においてもヤマトを凌ぐ世界であってはならないのです。

(「第二章 出雲の神々の物語」)


伊豆の諏訪神社

三嶋大社の前に参詣した、静岡県長泉町の「諏訪神社」。

いたってフツーの、日本中のどこでも見かける村の鎮守だが、出雲地方には諏訪神社の祭神・タケミナカタを祀る神社はないと聞く。ちなみに新潟には1522社、長野には1112社も諏訪神社があるそうな。

また、古事記では、タケミナカタは大国主神の子でコトシロヌシの弟だとして登場し、ヤマトの使者との力比べに敗れて諏訪まで遁走したことになっているが、その名前は「日本書紀」にも「出雲国風土記」にも「出雲国造神賀詞」にも出てこない。

この、どう考えても出雲とは無縁のタケミナカタが、元々の「出雲神話」という体系からカットされた存在だとは、ぼくにはどうにも受け容れがたい。反対に、何者かが机上で出雲と諏訪を結びつけた結果だと捉えた方が、話の流れが素直なような気がしている。

それにそもそも日本書紀がカットしたという「出雲神話」のパーツだって、「越」のヌナカワヒメ、「因幡」の白ウサギ、「伯耆」の赤イノシシ、「木国(紀国)」のオオヤビコ、そして「根の国」のスサノオと、みな出雲以外が舞台になってるわけで、ヤマトから見てそれが「出雲神話」と言えるのかどうか、ビミョーなかんじもある。


えびす

さて、改めて記紀の該当箇所を読みなおしてみると、コトシロヌシは美保に住んでいたというわけじゃなくて、魚釣り(あるいは鳥猟)のために美保を訪れていた、と書いてある。じゃあコトシロヌシは、一体どこからやってきて、美保に向かったというんだろう。

次の出雲訪問では、そういう、考えても答えの出なさそうな、徒労感あふれるネタを楽しむ旅にしたいと、ずっと計画してきた。値引き目当て(せこい!)のワクチンも打ってきたし、そろそろ二度目の出雲の旅に出かけることにしよう。

つづく

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江島神社と記紀の味耜高彦根命 - 日本武尊編その30

瑞心門

鎌倉での仕事の帰りに、藤沢市の「江島(えのしま)神社」に寄ってきた。
祭神は宗像三女神。

春の宗像大社では「辺津宮」のイチキシマ姫しか参拝できなかったので、今回は残る二柱を念入りにお参りしてきたのだった。

奥津宮

江の島の中を結構歩いて、タキリ姫を祀る「奥津宮」へ。
こちらは宗像大社の「沖津宮」にあたる。

タキリ姫について日本書紀では、アマテラスとスサノオの「うけい」で生まれたことと、葦原中つ国の宇佐嶋に降臨したのち、筑紫の水沼君胸肩君らの手で祀られていることが書いてあるが、古事記の方では系譜への言及もある。

古事記によれば、多紀理ヒメは出雲の大国主神と結婚して、アジスキタカヒコネらの母になったのだという。

辺津宮・中津宮

日本書紀で、そのアジスキタカヒコネが登場するのは「神代(下)」、いわゆる"葦原中国の平定"の場面だ。

皇祖タカミムスビ(高皇産霊尊)は、孫のニニギを葦原中国の君主にしようと考え、まずアメノホヒ(出雲国造のご先祖)を地上の平定に向かわせた。しかしアメノホヒもその子も、オオクニヌシにおもねって地上から復命しなかった。

3番目の使者はアメワカヒコ(天稚彦)で、この神に至ってはオオクニヌシの娘(下照姫)を妻に娶って、地上に住み着いてしまった。そしてその後いろいろあって、アメワカヒコはタカミムスビの放った「返し矢」によって、命を落とすことになる。

日光二荒山神社2209

ここで登場するのが、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根命)だ。

アジスキは、葦原中国に降りてからのアメワカヒコの親友で、その姿はワカヒコにそっくりだった。そのため、アジスキが弔問のため「天」に昇ると、ワカヒコの家族はアジスキをワカヒコと間違えて、その復活を喜んだ。だが死者に間違えられたアジスキは憤慨し、喪屋を切り倒して地上に落としてしまったという・・・。

アジシキタカヒコネの神ぞ

さてこの不思議なエピソードは、死と再生の物語として『妖怪ハンター』なんかのモチーフになったりで有名なものだが、実は古事記の方には、誠によく似ているが決定的に違うストーリーが載っている。

日本書紀ではアジスキの方が「天」に昇ったが、古事記ではワカヒコの「殯(もがり)屋」は地上に作られ、家族の方がそこに降臨してきたとあるのだ。古事記のアジスキは、ただ地上を歩いて移動しただけというわけだ。

神話で読みとく古代日本

アジスキタカヒコネが天に昇った日本書紀と、地上でのみ活動した古事記のちがい。
こいつを説明してるような本はないかーと探したところ、上代日本文学を専門とされる松本直樹さんの『神話で読みとく古代日本』(2016年)がヒットした。

この本で松本さんは、まず古事記を褒める。

 一言でいって、古事記は実に「完成度の高い作品」である。用語、用字のレベルに至るまで相当に綿密な計算がなされ、それが全体の主題、文脈を支えている。そのことは、多くの研究成果によって証明されてきた。

んでその上で、古事記の中に「古事記らしからぬ、おかしな所がある」とおっしゃる。それが、スクナヒコナが去った後、オオクニヌシが出会った「海を光して依り来る神」の、祭祀についてだ。

光る神は「吾をば倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といい、日本書紀の同じ場面では、オオクニヌシは神宮を三諸(三輪山)に造営して神を住まわせたとある。

ところが古事記には、オオクニヌシが「その神を祀ったという明確な記述がないのだ」。

大神神社2209

日本書紀では、「光る神」はオオクニヌシの「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま=瑞祥と神霊の魂)」だと説明され、オオクニヌシと三輪山の神、すなわち大物主神(オオモノヌシ)は同一神だと見なされた。

しかし古事記では、オオクニヌシと「光る神」は全く別の神であるうえ、オオクニヌシが大和(倭)に出向いたという記述もない。

糸魚川駅の沼河比売(糸魚川駅の沼河比売・写真AC

古事記でオオクニヌシが大和(倭)に「上る」ことができないという描写は、他の場面にも見ることができる。

それは、高志(越)の沼河比売(ヌナカワヒメ)を現地妻にしたオオクニヌシが、正妻・スセリヒメの嫉妬を怖れて出雲から大和に上ろうと考え、旅支度まで整えたものの、スセリヒメの愛の歌に心を打たれて出雲に留まった、というエピソードだ。

こうした古事記の意図を松本さんは、オホクニヌシの力を「倭」にだけは及ばせないためであろう、と分析されている。

酒列磯前神社22

まとめてみれば、出雲/大和、さらには、葦原中国/高天原という境界を、ほとんど意識しない日本書紀と、厳密に分断して対立させている古事記、ってかんじか。

日本書紀ではオオクニヌシもアジスキタカヒコネも、平気でその境界を跨いでいってしまうが、古事記には越えられない壁、バリヤー、結界、何でもいいが、そういう一線が確実に存在しているようだ。

出番は僅かだが、オオクニヌシの相棒スクナヒコナからも、同じことは感じることができる。

まず古事記では、スクナヒコナは『出雲国風土記』にも登場するカミムスビの子だといわれるが、日本書紀では天上界の主宰神にして皇祖神のタカミムスビの子として生まれた上、タカミムスビが公認して二神がコンビを組んだという経緯が載っている。

そして、コンビを組んだオオクニヌシとスクナヒコナの活躍を、日本書紀はこう記述している。

またこの世の青人草と家畜のためには療病の方法を定められ、鳥獣や昆虫の災異を除くために、まじないはらう方法を定められた。だから百姓(おおみたから)は今に至るまでみなこの神の恩をうけているのである。

実はこの、彼らの具体的な功績を、古事記はまったく書いてない。

古事記はただ「二神は一緒にこの国を作り堅めた」と漠然とした話に留まっていて、日本中から感謝されているという日本書紀に比べると、古事記の二神はあくまで「出雲の開拓神」に限定されてるように感じられる。

ぼくにはここでも古事記からは、オオクニヌシを(筑紫や越を含む)国つ神の出雲世界の中に閉じこめたいという意思を感じてしまうわけだが、それって考えすぎか?


余談になるが、上の写真の酒列磯前神社では、平安時代初期の856年に大洗海岸にオオクニヌシ・スクナヒコナが救世のため示現したってのが、祭祀の縁起として「正史」に記録されている。
一説によると、オオクニヌシは出雲大社に「怨霊」として封印されたという話だが、856年には早くもその封印は解除されていた、ということになるんだろうか(しつこいw)。

記紀と出雲の話題は、つづく


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京都府の出雲大神宮とミホツヒメ - 日本武尊編その29

小川月神社1

京都府、亀岡盆地の真ん中で、ツクヨミを祀る「小川月神社」。
小さなお社だが、あの「秦氏」が創建したという説もある、名神大社だ。

写真で背後に見えるのは丹波高地で、ちょうど社殿で見えないあたりの山麓に「出雲」があった。

出雲大神宮1

それが、京都府亀岡市に鎮座する「出雲大神宮」。
丹波国の一の宮だ。

誰でも知ってる有名な「出雲大社」は明治4年までは「杵築大社(杵築宮)」と称していたので、江戸時代までは"出雲社"といえば当社のことを指したようだ(参考『大日本国一宮記』)。

出雲大神宮2

日本書紀には、崇神天皇60年(長浜暦237年ごろ)のこととして、出雲王の「出雲振根(ふるね)」が「四道将軍」の吉備津彦命らの手で誅殺されたあと、ヤマトを怖れた出雲人たちが"出雲大神"の祭りを中断していたところ、なぜか「丹波」の幼児の口を通じて、大神が祭祀の再開を要求してきた、というエピソードがある。

これこそが、丹波の出雲大神宮の創始だという説もあれば、いやいや幼児が住んでいた「氷上(丹波市)」は大神宮からは遠すぎる、という説もあって、賑やかなようだ。

出雲大神宮3

出雲大神宮の現在の祭神は「大国主命」と「三穂津姫(ミホツヒメ)命」の二柱だが、元はミホツヒメの一座だったようだ。

日本神話でミホツヒメが登場するのは、日本書紀の神代第9段(葦原中つ国の平定)、第二の「一書(あるふみ)」だけ。「一書」ってのは正伝である本文に対する、異伝・参考文のことで、本文より小さな文字で書かれている。

日本書紀「一書」の例
(一書の例:『古事記と日本書紀「天皇神話」の歴史』神野志隆光 より)

んで、その一書にはこんなことが書いてある。

国譲りを迫ったものの、オオナムチ(大己貴神)に拒絶されたフツヌシ(経津主)とタケミカヅチは、天に戻ってタカミムスビ(高皇産霊尊)に相談して、オオナムチが納得できる条件を持参してきた。オオナムチには巨大な宮殿が与えられ、出雲臣の祖アメノホヒ(天穂日命)による祭祀を受け、幽界の神事を担当することになったのだった。

続いてフツヌシによる葦原中つ国の平定が行われ、このとき帰順してきた首魁に、オオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)がいた。タカミムスビはオオモノヌシに娘のミホツヒメを娶せることで忠誠を確認すると、皇孫の守護神となるべく地上に降ろすのだった・・・。

美保神社2209

ミホツヒメを祀る神社には、松江市の「美保神社」もあるが、日本書紀を見るかぎり、ミホツヒメが大物主とともに降臨したのは奈良県だと思われる。というのも、のちに大和入りした神武天皇に嫁いだヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)は、オオモノヌシ、もしくはコトシロヌシの娘だと、日本書紀にあるからだ。

だとすると、そもそもフツヌシが二神を帰順させたという場所も、大和だったと考えるのが自然だという気がする。

物部氏の氏神

ところでフツヌシには、物部氏の神剣「ふつのみたま」を人格化した神だという説がある。それを聞いて日本書紀をながめれば、皇孫のために大和で戦った物部氏の祖が、フツヌシの他にもいたことを思い出す。

それは、神武天皇より先に大和に入り、近隣の土豪たちの盟主に君臨していながら、あくまで天皇への抵抗を続けようとするナガスネヒコ(長髄彦)を殺害すると、皇軍に帰順したというニギハヤヒ(饒速日命)のことだ。

もしも、このニギハヤヒによる大和の「国譲り」がなかったら、神武天皇の大和入りには、もっと多くの血が流されたことだろう。

ところが不思議なことに、このニギハヤヒの「国譲り」は、古事記には出てこない。古事記には、ニギハヤヒが大和で皇軍に参加して、「天津瑞」を天皇に献上したとしか書いてないのだ。

火の鳥ヤマト編の景行天皇

この点に限らず、古事記と日本書紀には、似て非なる箇所がかなりある。なかでも目立つのが「出雲神話」と「ヤマトタケル神話」に関してだろう。

古事記では、ヤマトタケルは父の景行天皇に疎まれて、女漁りと子作りしかしない天皇に命じられるまま、過酷な遠征を繰り返し、旅路の果てに若くして亡くなった悲劇のヒーローとして描かれる。

一方、日本書紀には、景行天皇は自ら軍を起こして九州を平定し、東征の帰路でヤマトタケルが亡くなると、息子を偲んで東国を巡幸して回ったと書いてある。親子の関係も良好だ。

これ、記紀に続いて編纂された「風土記」のうち、現存する『肥前国風土記』『豊後国風土記』『常陸国風土記』には、景行天皇が巡幸してきた際のエピソードが書かれているわけで、それらは日本書紀の記述を裏付けていると見るのがフツーの感覚だろう。

ただ、古事記だけが、景行天皇を怠け者で、血も涙もない酷薄な天皇だと描いてるというわけだ。

古事記外伝2209

何度となく取り上げてる本だが、ぼくらの愛読書に『古事記外伝』(藤巻一保/2011年)があって、そこでは古事記には、藤原氏(中臣氏)による政治的プロパガンダの可能性があると、主張されている。

ザックリまとめれば、「生」をつかさどる「伊勢」と「死」をつかさどる「出雲」を高く持ち上げることで、その両者を統べる天皇の価値が高まっていき、ひいてはナンバーツーの藤原氏(中臣氏)の価値も高めることができる・・・というような話で、とても説得力のある説明だと思う。

だが、景行天皇についてはどうなのか。
古事記では、ヤマトタケルの価値は上がってるが、肝心の天皇の価値は極限まで下げられてないか?

六国史以前2

こりゃどうしたもんかと、思案していたところに朗報が。

古事記には、元々は飛鳥時代の大豪族、蘇我氏に伝わる「天皇記(帝紀)」だったんじゃないかという説があるんだそうだよ。関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』(2020年)という本に書いてあった。

なるほど蘇我氏かー。
蝦夷・入鹿なら「天皇下げ」もあり得るか?

それにそういえば、古事記には出雲を降伏させたのはヤマトタケルだと書いてあるが、日本書紀の方では、垂仁天皇26年(長浜暦254年ごろ)に、五大夫の「物部十千根」が出雲の「神宝」を検校し、委細を奏上し、掌ったと書いてある。

古代においては、神宝を奪われることは部族の降伏を意味するそうなので、日本書紀は出雲を降伏させたのは、物部氏だといっていることになる。

ニギハヤヒと物部十千根。

古事記に書いてないのは、いずれも飛鳥時代に蘇我氏と覇権を争った、物部氏の先祖の活躍だ。蘇我氏には、物部氏を削除する十分な動機があったということか。

小川月神社2

話には続きがある。

乙巳の変で蘇我本家の「古事記(天皇記/帝紀)」は燃えてしまったが、分家で中大兄皇子に味方した蘇我倉山田石川麻呂の「古事記」は残った(と関根さんはお考えだ)。

時は流れて大化5年3月。
謀叛の疑いをかけられて皇軍に追われた石川麻呂は自害し、その財産は朝廷に没収されたが、その時の様子を日本書紀はこう記録している。

資財之中、於好書上題皇太子書、於重宝上題皇太子物。
(資財のうち、好き書の上には「皇太子の書」と題され、重き宝の上には「皇太子の物」と題される)

もしも、蘇我氏の「古事記」が石川麻呂の「好き書」に含まれていたなら、それは遺言にもとづき中大兄皇子の手に渡っただろう。それが寵臣の中臣鎌足の手に渡り、さらにはその子、藤原不比等の手に渡る・・・そういう可能性は十分にあったというわけか。

嵐山

さて、古事記の中で、歴史の舞台としての出雲が出てくるのは、ヤマトタケルの記事が最後だ。ぼくの心もとっくに出雲に飛んでいってるんだが、しばらくは稼業がバタバタしていて時間が作れそうもない。

近場の「出雲」でお茶を濁しつつ、Amazonで面白そうな本でも探すかー。

つづく

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近江のイザナギと古事記偽書説 - 日本武尊編その28

多賀大社1

滋賀県犬上郡多賀町で、イザナギ・イザナミを祀る式内社の「多賀大社」。

『古事記』の上巻に、イザナギは「坐淡海之多賀也」(淡海の多賀に坐すなり)とあることから、当地をイザナギの墓所とみなしての信仰だそうだ。妻のイザナミの方は、出雲と伯耆の境の「比婆之山」に葬ったというので、えらく遠く離れたところにお墓を作ったもんだ。

多賀大社2

ところが『日本書紀』には全く違うことが書いてあって、イザナギは「淡路」に、イザナミは「熊野」に墓所があるという。この点に限らず、一口に「記紀」とは言うものの、記と紀を同じ物のバリエーションだと考えると泥沼にはまる。

伊弉諾神宮・花の窟神社

ただ、イザナギ・イザナミの「国生み神話」については、文化人類学や神話学のフィールドワークの成果で、古代から広くアジアの漁労民に共有されてきた「洪水型兄妹始祖神話」とやらにルーツがあることが判明しているという。つまりイザナミ・イザナギは「海人(あま)族」の神だろうということだ。

ならばその墓所は、海人族の拠点である淡路島や熊野灘がふさわしく、近江盆地や中国山地には縁もゆかりもない気がするが、さてさて、どちらの主張が正しいのか。

気になるのは、古事記には昔から「偽書説」があるということだ。

と言ってもウソ800が書いてあるということじゃなくて、古事記が「序文」でいうような、天武天皇の勅命で稗田阿礼が「誦習」した記録を712年に太安万侶が文章化したという、成立の経緯が疑われているらしい。

古事記成立考

古事記偽書説に興味が湧いて読んだのは、古事記研究をライフワークにされた大和(おおわ)岩雄さんの『古事記成立考』(1997年)。

大和岩雄さんについては、『でる単』や『Big Tomorrow』が懐かしい青春出版社の創業者だと聞けば親しみが湧いてくると思うが、在野の古代史研究家としても超有名だ。

この本でも古事記に向けられる疑問の全てが網羅されてると思われるが、「訓注」だ「音注」だと言われてもシロウトにはサッパリなので、身近な神さまの話題を取り上げたい。

外宮9

まず、写真は言わずと知れた、トヨウケを祀る伊勢の「豊受大神宮」(正宮は恐れ多いので、荒御魂を祀る多賀宮)。

ぼくらはこちらを「外宮(げくう)」と呼び、古事記にも「次登由宇気神、此者坐外宮之度相神者也(次にトヨウケの神、此は外宮の度相に坐す神ぞ)」と書いてある。

ところが大和さんによると、「外宮」という呼称が定着して史書に載ったのは、平安時代に入ってからのことなんだそうだ。712年に成立したという古事記が、なぜ100年も後の呼称を知っていたのか、これは不思議だ。なお日本書紀には、そもそもトヨウケは出てこない。

秩父神社9

つづいて、アメノミナカヌシ(天御中主尊)を祀る「秩父神社」。

この神さまは実体のない神さまで、秩父神社でも明治の神仏分離までは「妙見菩薩」として祀っていたそうだ。

日本書紀本文では、最初に現れた神は「国常立尊」だとして、アメノミナカヌシは異伝の「一書(あるふみ)」にチョロっと出てくるだけだが、古事記の方では堂々たるトップバッターとして登場している。

同じようにアメノミナカヌシを最初に現れた神だとする史書には、『古語拾遺』や『先代旧事本紀』『住吉大社神代記』などがあるが、不思議なことに揃って平安初期以降に成立したものなんだそうだ。

新撰姓氏録の研究2209

おまけで系譜について。

日本書紀に出自や由来が載る氏族は110氏だが、古事記は201氏と倍増している。
だがその内訳を分析すると、日本書紀「だけ」に載録される氏族は推古朝までに活躍した古い氏族が多く、古事記「だけ」に出てくる氏族は明らかに新しいそうだ。

んでそのラインナップはというと、815年に成立した『新撰姓氏録』に非常に近似しているんだそうだ。

寿命そば(多賀の寿命そば)

さて、そんなこんなで大和さんの結論はこうだ。

 このことからみて、古くからあった旧記(ふることぶみ)としての『古事記』(原古事記)に、序文を付し、系譜を書き直し、仮名遣いを統一して、誕生したのが、現存『古事記』であろう。

(「現存『古事記』を宣伝した『弘仁私記』序」)


問題は「序文」だということだ。

序文に712年と書いてなければ、古事記は平安初期に忌部氏の『古語拾遺』や物部氏の『先代旧事本紀』と同じように成立した、民間の私的史書の一つに過ぎなかったのかも知れない。聞いて驚いたが、古事記の序文以外に、古事記が712年に成立したことを裏付けるものは何もないんだってさ。

うま

●序文の怪しさ①
稗田阿礼の実在を証明するものが、何もない。それどころか、勅命を受けた舎人だと言う割りには、「姓(かばね)」さえない。

●序文の怪しさ②
太安万侶は、正史『続日本紀』に5回も名前がでてくる実在の高級官僚だが、和銅5年(712年)の条に、太安万侶が勅撰の古事記を選録したという記録はない(720年の日本書紀完成の記事は存在する)。

●序文の怪しさ③
古事記は序文と本文で内容が違う。本文で大々的に取り上げたヤマトタケルや出雲神話について、序文では言及がない。また、専門家が見ると、序文は「唐様」、本文は「倭様」で、文体からして異なるらしい。

じゃあ結局のところ、大和さんが言われる「現存古事記」を作ったのは誰なのか。

それは、平安初期の日本書紀研究の第一人者で、朝廷で「日本紀講筵(こうえん)」を行った「多人長(おおのひとなが)」なる人物だと、大和さんは言われる。何でも、「古事記」の名が歴史上はじめて確認できるのが、この人の日本書紀講義の記録なんだとか。

この人が、自分の講義に副読本として手持ちの「古事記」を持ちこんだ。そこには、太安万侶の偉業を称える序文が書き加えてあった。その名から分かる通りで、多人長さんは太安万侶の子孫にあたる・・・。

六国史以前

ところで大和さんによれば、固有名詞である日本書紀と違って、古事記は風土記と同じ「普通名詞」で、ぼくらが目にする現存古事記の他にも、いくつかその存在が確認されているという。

もちろん、シロウトのぼくにはどれも初めて聞く名前だが、いちおう挙げとくと、まず『仙覚抄』に引用された『土佐国風土記』逸文に残る「多氏古事記」。それと平安前期の『琴歌譜』に記載された「一古事記(あるふることふみ)」。さらには、万葉集の「注」に出てくる「古事記」は、現存古事記とは違う歌が出てくるので別の本だという・・・。

なるほどー、いろんな古事記があるのは分かった。
でも、ぼくらが知ってる現存古事記の元になったという「原古事記」、これはどこから来たものなんだろう。

それを考察しているのが『六国史以前』(関根淳/2020年)。

この本によると、古事記が「継体天皇の母系」や「聖徳太子の偉業」「崇峻天皇の暗殺」などをスルーしている点から、「原古事記」は蘇我氏、それも中大兄皇子に味方した、蘇我倉山田石川麻呂の手元にあったものだろうということだ。

うーむ、蘇我氏か。
いかんせん、ぼくらは泥縄式に古代史を楽しむことをモットーにしているので、飛鳥時代とかまだまだ先の話。蘇我氏にもまだ、ぜんぜん興味が湧かないのだった。


ところで大和岩雄さんによれば、古事記が平安初期の神観念で創作した神には、あの「大国主神」も該当するというぞ。

出雲か、そろそろ・・・もう一度。

つづく

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成務天皇の「高穴穂宮」と息長氏 - 日本武尊編その27

息吹山

新幹線の車窓から撮った「伊吹山」。

はじめは(クルマで)登る気マンマンだったんだが、よく考えてみると逆聖地?。
ヤマトタケルの寿命を縮めた山としてみれば、ところどころゴリゴリした山肌が露出していたり、山頂にドンヨリした雲がかかっていたりと、だんだん不気味な魔の山に思えてきて、あっさりとスルーが決定したのだった。

建部大社1

ヤマトタケルを主祭神に祀る、近江国一の宮で名神大社で官幣大社の「建部大社」(大津市)は、ちょー綺麗な神社だったな。

パッと見、本殿が二つ並んでるように見えるが、右は「権殿(ごんでん)」といって、本殿の修理などの際に、ご神体を一時的に移す仮殿だそうだ。本来は空いているのが正しいそうだが、現在は「大己貴命」が祀られている。

室町時代の『大日本国一宮記』には「建部神社」の祭神は「大己貴命」だと書いてあるので、その後、主祭神に日本武尊を迎えたとき、大己貴命が本殿を譲った形なんだろうか。

建部大社2

あるいは、建部大社を氏神とした当地の豪族「建部氏」が、ヤマトタケルの子「稲依別命」を祖とすることから、元々はその稲依別命を祀ったのだろうという説もある(『日本の神々 神社と聖地5』)。

兵主大社2

ところで近江では、「高穴穂(たかあなほ)宮」にまつわる神社も回ってきた。「高穴穂宮」は、ヤマトが奈良盆地の外にもうけた初めての都だ。

日本書紀には、第12代景行天皇は58年(作家の長浜浩明さんの計算だと西暦319年ごろ)、皇居を大和の「纒向(まきむく)日代宮」から近江の「高穴穂宮」に遷したと書いてある。この時、大和からいっしょに遷座したと伝わるのが、野洲市の式内社「兵主大社」。

日牟禮八幡宮

西暦320年に景行天皇が崩じると、早世したヤマトタケルの弟、第13代成務天皇がそのまま「高穴穂宮」で即位した。その際、側近の武内宿禰に命じて、近江の地主神「大嶋大神」を祀らせたのが創始だというのが、近江八幡市の「日牟禮(ひむれ)八幡宮」。

高穴穂宮神社

そして成務天皇が、父の景行天皇を祀ったという大津市穴太の「高穴穂神社」。
この地は、成務天皇が30年にわたって執政した「高穴穂宮」の候補地でもある。

ただし(珍しいことではないが)ここが「高穴穂宮」だったことを証明できる遺跡や遺物は、今のところ見つかってはいないそうだ。

高穴穂宮碑

とはいえ、近江に「高穴穂宮」が営まれた可能性はゼロというわけではないようだ。

大津市の歴史博物館が2004年に発行した『近江・大津になぜ都は営まれたのか』の中で、歴史学者の井上満郎さんは、「高穴穂宮」や「景行天皇」の実在には疑問の声があると断りながらも、「高穴穂宮」が大津市穴太(あのう)の地名を反映してる点や、当時の大津が渡来人の濃密な居住地だったFACTを踏まえ、こう言及されている。

したがいまして、近江国に初めて設定されました高穴穂宮というのは、渡来人と渡来文化における近江のあり方と考えてみれば解けるのではないか、というふうに考えております。

(「古代近江の宮都論〜渡来人と渡来文化をめぐって〜」)


近江・大津になぜ都は営まれたのか

667年の天智天皇の「近江大津宮」への遷都は、白村江で大敗させられた唐や新羅から「逃げる」ため、安全な奥地に引っ込んだという説が強い。

しかし井上さんは、天智天皇は大和から近江に「退いた」のではなく、むしろ「進んだ」のだと言われる。日本海に出やすい近江の方が、朝鮮半島にまだ健在だった高句麗に近いからだ。あのとき天智天皇は、近江に広く居住している渡来系の力を集め、高句麗と提携することに活路を見出したのではないか、と井上さんはお考えだ。

安土瓢箪山古墳

さてそんな井上説に基づけば、成務天皇(長浜暦で在位320〜350年)の時代にも、近江では朝鮮半島との結びつきが強化されていたことになるはずだが、それを証明できるFACTはあるもんだろうか。

上の写真(左)は、滋賀県教育委員会のPDFから借用してきた「安土瓢箪山古墳」の空撮写真(右は自分で撮ってきた案内板)。

安土瓢箪山古墳は、墳丘長134mと滋賀県最大の前方後円墳で、4世紀中葉の築造とされる。早ければ、成務天皇の治世の後半には造営されていたタイミングだ。

雪野山古墳

ところで近江八幡市には、安土瓢箪山古墳より半世紀ほど古く、3C末〜4C前半に築造された「雪野山古墳」(70m)ってのも見つかっていて、この両者の比較が面白い。

考古学者の佐々木憲一さんによれば、雪野山古墳の副葬品はフツーに中国に由来する「鏡」などが主流だったんだが、安土瓢箪山古墳の副葬品は、朝鮮半島に系譜がある「筒型銅器」や「鉄製武具」などに入れ替わっているんだそうだ。

その背景には、313年に楽浪郡を滅ぼした高句麗の南下圧力があったのでは、と佐々木さんはお考えだ。後ろ盾だと思ってた「中国」が半島から消えてしまったので、ヤマトはもともと親しかった南部の「伽耶(かや)」との関係を強化したのだろうと。

安土瓢箪山古墳の副葬品は、このように朝鮮半島東南部地域とヤマト王権との関係がより密になったことを象徴しているのではないかと考えられる。

(『未盗掘石室の発見 雪野山古墳』佐々木憲一/2004年)

ヤマトタケルによる全国制覇!がなされた後、ヤマトの目は国内を離れ、朝鮮半島に向けられたのだろう。近江出身の神功皇后が「三韓征伐」に出るのは、成務天皇が崩御して5年後のことだ。


山津照神社

所かわって、写真は米原市の式内社で「山津照(やまつてる)神社」。

境内には、6C中葉の前方後円墳(46m)があって、歴史学者の水谷千秋さんによると、第26代継体天皇に娘を嫁がせた、「息長(おきなが)真手王」さんの墳墓ではないかとのこと(『継体天皇と朝鮮半島の謎』2013年)。

山津照神社の現在の祭神は「国常立尊」とされるが、実際にはそれは5〜6Cに当地の製鉄を支配した「息長氏」の祖神だろうと、『日本の神々5』には書いてある。

系図上の「息長」は、第9代開化天皇の玄孫で(例の)ヒコイマスにはひ孫にあたる、「息長宿禰王」から始まっていて、この人は神功皇后のお父上だ。息長氏は、神功皇后のご実家というわけだ。

学者の中には、継体天皇の出自を息長氏だと見る説もあるという。

安土考古学博物館
(安土城考古博物館)

珍説と言えば、ぼくらも以前「ヤマトタケル天皇は成務天皇か」なんてホザいたことがある。

長浜さんの計算だと、第14代仲哀天皇は、父ヤマトタケルの没後に誕生していることになり、その矛盾を解消するにはヤマトタケルが高穴穂宮で成務天皇として即位した、と考えるのがイージーだと思ったわけ。

282年 ヤマトタケル 誕生
297年 成務天皇 誕生
312年 ヤマトタケル 崩御(30才)
320年 成務天皇 即位
329年 仲哀天皇 誕生
350年 成務天皇 崩御(53才)

問題はなぜ、ヤマトタケルと成務天皇は分離してしまったのかだが、天皇の父が天皇でない前例を作るため、ってのはどうだろう。ただし、天皇ではないが、ヤマト最大の英雄ではあるという・・・。

まぁ当時の人にとって、それで継体天皇が応神天皇の5世孫もの遠縁だというインパクトが、薄められたのかどうかは分からないが。

ヤマタイカのヤマトタケル2208

ちなみに、797年完成の『続日本紀』には、702年8月8日の記事として「震倭建命墓。遣使祭之。」(ヤマトタケルの墓に落雷があったので、使いを遣わして鎮祭をした)というものがある。

これについて考古学者の森浩一さんは、「少なくとも墓を奈良時代の前にはつくっているのですから」「よくいわれる後の時代に架空の人物をつくったというのとはかなり違うと思います」と発言されている(『ヤマトタケル 尾張・美濃と英雄伝説』1995年)。

高名な学者さんの中にも、ヤマトタケルの実在を唱える人もいるようで、心強いことだ。

近江の話題はつづく

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近江の鉄の神々とアメノヒボコ - 日本武尊編その26

三上山

南近江をウロウロしていると、どこからでも目に入ってくる「三上山」。なぜか『未知との遭遇』が見たくなったりして、不思議な山だった。

さて南近江では、鉄や金属の神さまを参詣してきた。まずは三上山のふもとに鎮座する名神大社、野洲市の「御上(みかみ)神社」へ。

御上神社

御上神社では、アマテラスの三男「天津彦根命(アマツヒコネ)」の子、「天之御影命(あめのみかげ)」を祀る。

天之御影命は、日本書紀に登場する「天目一箇神(あめのまひとつ)」と同一神だといわれ、鍛冶や製鉄の神として信仰を受けている。

菅田神社

同じく「天目一箇神」を祀る、近江八幡市の式内社「菅田神社」。

天目一箇神はその名の通り、一つ目の神だとされるが、民俗学者の石塚尊俊さんによれば、タタラ炉の炎を見つめすぎて失明した「片目のタタラ師」が神格化したものなんだとか。

敢国神社2

近江ではないが、伊賀一の宮の「敢国神社」は、明治に大彦命に決まるまでは、主祭神に金属の神「金山彦(姫)」を祀り、「南宮」と号したという。

金山彦(姫)は、美濃一の宮「南宮大社」から勧請したもので、平安時代の『梁塵秘抄』で"南宮の本山"と歌われる信濃一の宮「諏訪大社」との三社で、信濃ー美濃ー伊賀という製鉄神のラインがあるとかないとか。

水口神社

甲賀市の式内社「水口神社」では、「大水口宿禰」を祀る。

古代史ファンでないと聞かない名だが、崇神・垂仁の二帝に仕えたシャーマンで、「大神神社」「大和(おおやまと)神社」の創建に関わった人。「穗積氏」の祖で、ニギハヤヒから続く、物部氏だ。

物部氏というと朝廷の武器・兵器を管理した軍事氏族で、民俗学者の谷川健一さんは「穗積という地名は青銅器の製作や祭祀に関連がある」と『青銅の神の足跡』(1979年)に書かれている。

川田神社

水口神社とは、野洲川(天安川?)を挟んで鎮座する、名神大社の「川田神社」。

こちらの祭神は鳥取連の祖「天湯河板挙(あめのゆかわたな)」で、垂仁天皇の「唖(おし)」の皇子「ホムツワケ」のために、白鳥を捕らえてきたという人。

この不思議なエピソードを民俗学で解釈すると、火中出生のホムツワケは「火持別」「火貴別」で炎から生まれた金属を表し、「唖」であるのは「鉱毒」が原因で、「白鳥」は製鉄民の神、「湯」とはタタラ炉から流れ出す溶けた金属のことをいい、すべてが「鉄」に結びつくのだとか(『青銅の神の足跡』)。

兵主大社

野洲市の名神大社で「兵主(ひょうず)大社」。

一般にオオクニヌシの別名といわれる「八千矛神」を祀るが、勧請元の奈良県「穴師坐兵主神社」のご神体は「日矛」だという。つまりは金属製の武器だ。

また「兵主神」とは、古代中国の武器や金属の神「蚩尤(しゆう)」が原型であろうと、谷川健一『白鳥伝説』(1986年)には書いてある。

鏡神社

「日矛」が出たところで、蒲生郡竜王町鏡1289で「天日槍(アメノヒボコ)」を祀る「鏡(かがみ)神社」。

天日槍は、垂仁天皇3年(長浜暦242年ごろ)に来日した新羅の王子で、天皇から播磨と淡路での居住を許されたものの、諸国を見て回りたいと近江の「吾名邑」にしばらく住んだと、『日本書紀』は書く。

その後、天日槍は若狭を経て但馬に定住したが、日本書紀には「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍に従っていた者」(井上光貞)と書かれているので、当地に残された従者たちが天日槍を祀ったのが、鏡神社の創始のようだ。

邪馬台国とヤマト王権

ところで、その天日槍が持参した「神宝」の中には、「日の鏡」なるものがあったという。

それで天日槍の時代の、朝鮮半島の「鏡」や「墓制」について知りたくなって、読んだ本が『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』(2016年)。

著者の藤田憲司さんは、主に中国地方を専門に扱う考古学者で、2012〜2015年には韓国の研究機関にも所属されて、その方面にも明るい先生だ。

この本でも、古代の朝鮮半島と日本列島の墓制について、かなり詳細な比較がなされていて勉強になったが、やはりそのテーマでは一般受けが難しいせいか、後半は楽しい邪馬台国の話題も登場する。

九州弥生後期後半の鏡出土地
(図25 九州島弥生後期後半の鏡出土地)

「図25」は、いわゆる「倭国大乱」の頃の、九州地方での「鏡」の出土を表したもの。

なんで九州しか出てないかと言えば、他は数が少なすぎてお話にならないから。畿内などは、完形の舶載鏡は2面しかなく、しかもいずれも墳墓ではなく集落遺跡からの出土なんだとか。

藤田さんによれば2C後半、朝鮮半島と九州では「鏡」は個人で使用されて「威信財」の側面もあったが、畿内では「銅鐸」が集団祭祀の共同使用だったように、鏡も「お守り」「魔除け」といった共同の生活道具でしかなかったそうだ。

九州と畿内では「金属器に対する接し方は、国を隔てた異文化というべき違いである」んだとか。

庄内式並行期の鏡出土地
(図26 庄内式並行期の鏡出土地)

そして「図26」は、まさに卑弥呼が邪馬台国の女王だった時代の「鏡」の出土地で、依然として福岡・佐賀が他を圧倒している状況が見て取れる。

畿内だと、奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」が邪馬台国の本命だと喧伝されることが多いが、卑弥呼が亡くなったという248年ごろだと、255年±5年築造の「ホケノ山古墳」から出土した3枚しか、鏡の副葬はないらしい。これはおそ松だ!

鏡の文化だけ見れば、「大和のヒミコ」が魏王に鏡を切望するとは考えられない、と藤田さんが言われるとおり、畿内は鏡とは縁が薄かった。じゃあ、ヒミコはどこの人だったのか。

藤田さんによれば、それは北部九州で、玄界灘には面しておらず、三角縁神獣鏡を伴う前方後円墳が分布しない地域だろうとのことだが、まぁプロの考古学者で具体的な場所を特定する人はいないか(笑)。

纒向石塚古墳とホケノ山古墳
写真AC

ところで大和の纒向遺跡の界隈では、100m級の前方後円タイプの墳墓自体は、3C初頭には姿を現していた。220年ごろ築造かと言われる、「纒向石塚古墳」(96m)などだ。

ただ、その頃の畿内では鉄器もろくに普及しておらず、鏡の副葬もなかったわけで、250年ごろの「ホケノ山古墳」や270年ごろの「箸墓(はしはか)古墳」とは文化的な断絶がある。藤田さんによれば、北部九州の首長層の誰かがヤマトと手を結ばない限り、その断絶は埋まらなかっただろうとのことで、これは面白い話だ。

あるいは天日槍も、そうした西から東への流れに乗るかたちで、畿内にやってきたのかも知れない。

宗像大社

じゃあヤマトと組んだ首長の候補はというと、まず挙がるのは「宗像(むなかた)氏」か。

日本書紀には崇神天皇60年(長浜暦237年ごろ)、出雲王「出雲振根(ふるね)」は筑紫の国に出かけていて、ヤマトからの神宝提出の命令を受けることができなかった、というエピソードがある。

この時、出雲振根が筑紫で誰と会っていたのかは書かれていないが、オオクニヌシの「妻」に「宗像三女神」がいることから、出雲と宗像の深い交流を思い浮かべるのは、狂人の妄想ではないだろう。

そして、出雲振根の所業をヤマトに報告して殺させた「弟」たちの存在から、当時の出雲がヤマトへの対応をめぐって内紛状態にあった可能性もゼロではないだろう。ならば、彼らのうちの親ヤマト勢力が、宗像とヤマトを結びつけた可能性は、どうだろう。

ひこにゃん

もう一つの候補は、同じく海人族の「安曇(あずみ)氏」か。
ヤマトでは海人族の元締めとして、水軍の提督として重用されたが、重用には重用の理由があるはずだよな。

うーむ。そういえば宗像大社は、九州では唯一「神郡」を認められた神社だったなー。「図25」の、北九州市と行橋市の勢力も気になるなー。仲哀紀の「岡県主」とか「伊都県主」って誰なんだろう・・・。

ま、シロウトの空想は、ほどほどに(笑)。

近江の話題は、つづく

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